~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

少し長い、あとがき

藤井秀直翁顕彰会副会長・高瀬神社責任役員
岩倉 節郎

藤井家の先祖は三十人代天智天皇の御二男武彦命(施基皇子)で、大和国田原の里に住んだことから田原天皇とも称された方です。 現在の秀直翁で六十七代目に当たり、延喜式内社、高瀬神社と雄神神社外六十余社の宮司を務める、地方では稀に見る家系であります。

武彦命から数えて十五代目四位上兼中将、秀方様が仁寿二年(八五二)の正月、勅命によって越中国砺波郡、高瀬神社の祝部(宮司)として下向されたのです。

その当時の砺波地方は利波臣一族という古代豪族の支配下にあって、高瀬神社は砺波地方の産土神、農耕神として絶大な崇敬を集めておりました。 藤井家は高瀬神社の南西にあたる権者(ごんじゃ)と呼ぶ場所に居を構えて、神社を中心にした高瀬庄の秩序と安寧を保つ心柱として代々の皆様が努力をされて来ました。

四十八代秀俊様の頃かと思いますが、越中守護代遊佐徳盛蓮沼城主は高瀬庄に代官を置き、東大寺の年貢の取り立てを請け負っていました。 中でも代官下長某、柚留木某等の取り立ては理不尽を極めたので、永享八年(一四三六)、高瀬庄二十人の名主が連署して直接、代官解任の大訴を起こしました。 これが北陸地方での土一揆の最初とされ、今も東大寺の古文書の中に保存されております。 この百姓達を指導し結合させたのは藤井一族だとされ、実際に代官が何度も交替をしております。 当時としては大変な事件であり、命を的に指導した藤井一族、それを信じた百姓達との深い絆を窺い知る事が出来ます。

その後、文明十三年(一四八一)、一向宗徒の一揆に古豪石黒一族が滅亡し、高瀬衆との軋轢も、燎原の火のように燃えさかる。 一向宗徒に依って高瀬神社は焼失し、藤井家は城端近くの山中、東西原村に落ち延びました。 その後、折を見て一族は五月雨の暗に乗じて雄神川を渡り、五ケ山の奥深い村に入りましたが、その時、高瀬庄の名主達を集めて「時代の流れに抗することより、 流れの中で一族、一柑を守る事こそ肝要だ」と泣いて別れを告げたと聞きます。 常に百姓、庶民の事を念頭に置き、事が起きると自らが指導者となる、脈々と流れる藤井家の気骨というものがあるように思えてなりません。

当六十七代秀直翁がまだ若い頃、先代秀一翁が健在であった昭和十八年、太平洋戦争の真っ最中で狂気の時代でもありましたが、「狛犬がいわく」の文章の中で日本軍隊の戦死者に対する法名について、 真正面から堂々と意見を書きました。

この文章がどこから、どうして憲兵隊の手に入ったのか解りませんが、当時は泣く子も黙る憲兵隊から、高岡市の高ノ宮前にあった分遣隊へ出頭するよう呼び出し状が届きました。 そこで若き秀直翁は「文章は一行だけでなく全文を読んでいただくと私の真意が解る」と弁明をしましたが、そんな事を聞き入れる憲兵ではありません。 「我々軍人は天皇の神兵として命を的にして働いているのだ。 その軍隊を侮辱するとは不届き至極・・・・」と二、三人の若い憲兵に散々に殴られました。 この時、急を開いて駆けつけた県財界の有力者の仲裁でやっと帰る事が出来たのですが、この一事を見ても藤井家には正義の血が脈々と流れていることを思い知らされるのです。

応永十三年(一四〇六)六月の梅雨時、飛騨から越中の山岳は集中豪雨に見舞われて、渓谷は山を崩し雄神川に押し出しました。 さすがの大河も大洪水を起こし、三条山から砺波野に突き出す小山脈は西に流れを変えて高瀬川を形成していましたが、荒れ狂う大浜水は高瀬川へ土砂を巻き上げて河口を塞いだのです。 行く手を失った洪水は三条山から突き出した山腹を突き崩して、千保川が本流になりました。 今の弁財天島はその時に出来たと伝えられています。 そしてこの山中に雄神神社の元宮があったのです。

雄神神社再建の話は再三に亘り起きましたが、一向宗徒の一揆や苦しい百姓の生活を考えて延び延びになっていました。 時代が流れ天文年間に至ると宗徒の一揆もようやく一役落をし、五十二代備中頭秀仲様の時に五ケ山山中から現在の庄に帰って来られたということです。

とにかく正義感が強く、幾多の大小の事件や苦難の中でも藤井家の人々は、それこそ一滴の岩清水が集まって細い流れを作り、やがて大河の流れになるような一途の努力を常に忘れず、代々の氏子の苦しみも喜びも分かち合って、 共に千百余年、遠い私達の先祖から深い深い交わりを結んで来た不可思議な縁によって今日があるように思えてなりません。

さて秀直翁の顕彰碑を作ろうという話は、三、四年前からありました。 その都度、御本人に依って「とんでもない、私如きが」と一笑に付されて来たのですが、平成七年九月頃から、有志の方々が是非にと強く提案され、各地で賛意の声も盛り上がりました。 発起人の代表には井波町長、清都邦夫さんをと、みなさんがお願いをされたところ、「人格識見共に顕彰するにふさわしい人だと思うので私はまったく個人の資格で・・・・」と快諾され、話が走り出したのです。

お陰様で年内に二回の発起人会、年明けて一回会合を開き、平成八年三月七日に発起人会総会を開き、募金の方法、目標金額、完成目標、原型制作等を決定しました。 また、完成記念品として秀直翁の豊かな人生経験に基づく講話を集成した「宮司語録」とでもいうべきものを本にしてほしいとの声が強く上がりました。

原型については井波町在住で日展評議員、横山豊介師にお願いすることになりましたが、同師からも越中一宮高額神社境内に造られる銅像であり、日頃から秀直翁には格別な敬意を払っているので誠心誠意全力を傾けるとのお約束をいただきました。

記念誌については鎌倉在住で新聞社にお勤めの藤村克明さん(娘婿)が、「おやじさんのためならば」と、講演、座談会のテープ起こしやまとめに当たって下さいました。

『神のまにまに』の表題は藤井秀直翁の次の自作の歌から選ばれたものです。

吾が生命 神より受けしものなれば 神のまにまに生きんとぞ思ふ

六月の役員会に皆様の了解を得ましたが、最も多難と思われた募金の仕事は氏子総代の方々にお願い致しましたところ、五月の初め頃から集まり始め、六月の末には目標が達成するという早さに、皆様方の熱く尊い御協力に対してただただ頭が下がるばかりです。

勿論それは、永い人生の中で、自分の事より宮の事、氏子の事を率先されて来た秀直翁の高潔な人格に対する信頼の賜であることは言うまでもありません。

私もこれ程の大事業の一端のお世話をする事となり、どうなることかと心配をしておりましたが、こんなに多くの皆様方の真心が積み上げられ、ただひたすらに感謝を申し上げるばかりです。

そして、まったくの素人が記念誌の編集という重大な仕事を、己を愚者と百も承知しながらお引き受けする羽目となり、御迷惑の上塗りと心配をいたしましたが、どうやら周囲の励ましによって流れに乗ってしまいました。 「愚者も千慮に一得あり」と史記の一節を信じて一日一日を過して来ました。 時に恵まれ、人に恵まれるとこんな大仕事も出来ると言うことを初めて知りました。

そして出版の労に当られた共同企画の皆様にも厚くお礼を申し上げます。 ただ感謝、感謝の念を深く、記念誌をお届け致します。

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