~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第5回:うぶすなの四季 神様とまつりの話

◆百姓与右衛門 祈年祭(二月)

 「年」は、本来は穀物、特に稲のことをいいました。 「稲が一回実る期間」ということから時の単位に使われるようになったのです。 「年有り」とは稲の実りのよいことであり、「年を祈る」というと豊年を願う意味です。 延喜式の祝詞にも「皇神(すめがみ)たちの依(よ)さしまつらむ奥(おき)つ御年(みとし)を」とありますが、「奥つ御年」というのは遅く実る穀物、つまり稲のことです。

 祈年祭は二月十七日に行われますが、年を祀る祭りであり、天皇陛下が種籾(たねもみ)を水にお浸しになる日です。 昔は谷川に俵に入れた種籾を浸けて豊年を祈りましたが、現在でも五穀豊穣を祈願する祭りとして行われています。

 この祝詞は他のものに比べて大変長いのですが、神道では「みたまのふゆをかたじけなにまつりて捧げまつる」と奏上しますが、宗教によっては「捧げまつるが故に今年もとりつくるものどもを」と言います。 全てのものを悪魔と見るわけです。 そして、神様はある場合には仏様にもなるし鬼にもなると言うのです。 神道はそうではなくて、神はわれわれの祖神(おやがみ)であるから日頃守っていただく、それに対する御恩報謝のつもりです。 人によっては神様の罰があたるとか、悪魔になってたたるとかいう者がいますが、それは間違いです。

 さて、現在は減反などといって米作りを休んだり、平気で出んぼを売買していますが、昔は自分たちはお粥を食べてでも田んぼを売ったりしませんでした。 本来、米は神様に差し上げるものであり、それだけに種籾もそれはそれは大事にしていました。 米が一般庶民の口に入るのはお祭りのときぐらいでした。 日本人全体が米の飯を食べるようになるのは戦時中の配給米制度以来のことです。

 天正の頃だったでしょうか、ある山村に百姓与右衛門という者がいました。 凶作が五年も続いて農民は種籾まで食べ尽くし、村の半数はどが餓死してしまいました。 与右衛門もその一人でしたが、彼は種籾を自分の背後に置いて「ために、ために」と言い残して死んでいったといいます。 後に残る人々のために・・・・ということなのでしょうが、それほどまでに種籾を大切にした心根に感動した私は、村に与右衝門の碑を建てて顕彰しました。 そうすることが私の仕事だと思ったからです。


◆山里の喜び 春祭り(三月~四月)


 春祭りは山の神を里に迎え、今年も一生懸命働きますから、田んぼの水まわりがよく稲虫の災いもなく、豊かな実りがあるように・・・・とお願いする祭りですが、同じ里でも山里の方が盛大に行われます。

 百日余りも雪に埋もれていたわけですから、春が来て大地が現れ、鶯は鳴く、まんさくの花が咲く、蕗(ふき)の薹(とう)が顔を出す、となると、わくわくして、朗らかな気分になってきます。 そのうちに田んぼに水が音を立てて入ってくると、もうじっとしていられません。 自然と祭りも賑やかで、獅子舞も出ます。
 これに村して村里の方は秋祭りほど盛んではなく、特に前年の実りがよくないと派手なことは慎む傾向にあり、獅子舞も出ません。

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