~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第 7 回:うぶすなの四季 神様とまつりの話

◆勇気と力 墓詣り(八月)

 七、八月はお盆なので日本中で墓詣りが行われます。 神社では特に祭りはありませんが祖先を敬う大切な行事として、私も毎年欠かしたことはありません。

 私の家の墓地は山裾に谷川の流れに沿って帯状に長くなっており、代々土葬にするため幾十基もの墓石が苔むして雑然と並んでいます。

 お盆の行事は八月十三日の夕詣りから始まり、十六日の夕祭りまで四日間、朝夕二回お詣りするのですが、遊びざかりの少年の頃は苦行の一つでした。

 それから幾十年もの間、来る年も来る年も、お盆になると一つ一つの墓前に膝をついて、その人が、その時代に、 それぞれいかに強く生き抜いてきたかを追想するのが私の墓詣りの方法であり、故人と話し合う一年に一回の機会なのです。

 五十二代目に当たる藤井秀仲という人の墓は、特にねんごろにお詣りする中の一つです。 秀仲が五歳のとき、高瀬神社の大宮司であった父の秀卓が一向一揆との戦いに敗れ、一族とともに五箇山に逃れましたが、たびたびの戦いにも利なく、父親は切腹して果てました。 長男の秀仲は母や式部左近(高瀬神社式部職)とともに現在の庄の村へ来て、藤井家を再興したのです。

 私がその墓前で額づき、心からお願いをするのは「私と私の子孫にもあなたのような勇気と力を与えてください」ということです。 父と死別し、見知らぬ土地で、しかも敵の近くで我が家の再起に努力したことを思うとき、涙を止めることができません。 私の五体の血潮はこの秀仲と同じであり、子々孫々に至るまでそれが流れているのです。

 五、六十の大小の墓の主は、秀仲大人(うし)ばかりか、誰一人いい加減な生き方をした人はいなかったと信じています。

 墓は私たちとともに生きています。 子孫とともに喜怒哀楽を共にしています。 私の喜びは祖先の喜びであり、私の悲しみは祖先の悲しみなのです。
 ありがたく、うれしいことです。


◆魂の約束 戦没者慰霊票(八月)

 八月十五日は言うまでもなく終戦記念日ですが、神社ではこの前の大戦で亡くなった方々の御霊をお慰めする祭りを行います。

 第二次大戦ではこの地方からも大勢の人々が兵隊として戦地に赴きました。 そのときにしかるべき地立にあって現在もなお生存している人がいます。 彼らが出征兵士を送るときになんと言ったかというと、「銃後は私たちで守ります。 ご家族のことは心配なく。 万が一、戦死された場合は護国の英霊として靖国神社に祀られます」。 兵士たちは緊張に唇を震わせながら戦場へ行きました。 食べるものもなく、泥水を飲み、夏冬同じ衣服で戦ったのです。

 以前、サイパン島を慰霊のため訪問したことがありますが、日本の兵隊さんたちは敵に追われて北へ北へと逃げて行った。 北は内地の方角です。 そのいちばん北のはずれは今、バンザイ岬と言われています。 追い詰められた兵隊が「バンザイ」と言いながら両手を上げて飛び込んで行ったからだといいますが、実際は「バンザイ」ではなく、「お父さん、お母さん」と言って死んで行ったそうです。

 その人たちを送り出した中に「憲法が変わったから、慰霊祭にも参列しないし、靖国神社にも参詣しない」という人がいます。 そのとき私は言うのです。 「憲法というものは、生きている人間同士がよりよく生きるための約束文ではありませんか。 死んだ者との約束ではない。 現在の憲法は昭和二十二年に施行されているが、戦死した人間はそれより先に死んでいるのです。 魂と魂が約束したことはどうなっているか、もう一度よく考えてごらんなさい。 心ある人は、村々の招魂社、忠魂碑に一緒にお詣りをしましょう」。

 仏教では人には仏心と鬼心があるといいますが、神社神道では「荒霊(あらみたま)」「和霊(にぎみたま)」「奇霊(くしみたま)」「幸霊(さきみたま)」の四つの霊があると教えています。 近頃、巷(ちまた)に起きるさまざまな事件、事故、犯罪は、護国の神になりきれぬ英霊たちが荒れ狂うておられるからではないかと思います。 あのような戦争は繰り返すべきものではありません。 だが、戦争を忘れるために、犠牲になって死んでいった人々の魂まで忘れて、ないがしろにすることはできないのです。

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