~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第8回:うぶすなの四季 神様とまつりの話

◆稲は息の根 秋祭り(八~十月)

 収穫の御礼をするのは新嘗祭が本来です。 秋祭りは例祭といって、神様にいちばん因縁の深い祭りで、その神様を祀った日とか、村ができた日を例祭にすることが多いのです。 春祭りの項で触れたように、秋祭りは村里の方が賑やかで、獅子舞も出るし、以前は夜通しで芝居や映画を楽しんだりしました。 祭りというものは、ワッショイワッショイと意気のいいところを見せるのが穢(けが)れ(気枯れ)を祓うことになり、本義に沿うものです。

 丹精込めた稲の収穫が終わって、人々の喜びもひとしおなのでしょうが、稲というのは「息(生き)の根」の縮まった形で、日本人の生命であり、欠かせないものであることがよく分かります。 また、近年まで、刈り入れた稲は稲架(はさ)に掛けて干していたので、それがずらっと並んだ光景は、いかにも豊穣の秋を思わせるものがありました。

 神社といっても拝殿も何もない時代には、この稲架に稲でも小豆でも大根でも、田畑から収穫したままの姿で掛け、今年はこれだけとれましたと、神様にお供えしたのです。 これを「懸税(かけぢから)」といい、現在の税金の起源です。

 懸税はそのままだと作物が濡れてしまうので屋根を置くようになると、鳥がこれらのお供えをついばみに集まって来ます。 それで、懸税を「鳥居」と呼ぶようになったのです。


◆和来の神(前編) 高瀬神社例祭(九月)

 高瀬神社の例祭は九月十三日に行われます。 この地に御鎮座になってから二千年以上にもなるということですが、御神徳は今も昔も変わりなく、越中の守護神として敬われています。

 人間には喜怒哀楽の情があり、自分自身ではなかなか始末できないものです。 二千有余年の間、どれほど多くの人々が高瀬の社に詣って、感謝し、祈り、訴えたことでしょう。

 高瀬神社の御祭神は大国主大神ですが、『越中一ノ宮伝記』によると、昔、越の国に悪者が大勢住みついて人々を苦しめたので、大国主命が出雲からはるばるおいでになり、 越中国三津ケ峰(現在の牛嶽スキー場の上の山)に戦陣を張って悪者を撫育(ぶいく)されたということです。

 ここで注目すべきことは、大神が悪者を「征伐」ではなく「撫育」しようとされたということです。 いつもにこにこと兄神たちの重い荷物を大きな袋に入れてお歩さになった大神の慈愛に充ちたお気持を実によく表しているではありませんか。 福徳円満の神として私たちが敬慕してやまない理由がそこにあります。

 後世、聖徳太子が「和を以て貴しとなす」とのお言葉を示されたのも大神の御心を体されてのことと思われます。 政治にも、経済にも、あるいは教育の世界にも、大国主大神の「和」の心があれば日本の国は高天原になるでしょう。 近頃、「闘争」とか「勝ち抜く」という言葉をよく使いますが、真の文化国家であるならば、こんな殺伐とした文字は本来、不要のはずです。

 悪者どもは大神の御慈愛によってすっかり改心し、元通りの静かな年月が流れました。 だが、垂仁天皇の御代になって再び悪人が現れて人々を苦しめたので、天皇の命により大彦命がまた三津ケ峰に陣を構えましたが、地の利を得た悪者たちに悪戦苦闘しました。

 そのとき、白雲の中から大国主大神が現れて「悪者を平定するには荒魂(あらみたま)ではなく、和魂(にぎみたま)で撫育しなさい」とのたまわれました。 大彦命は気を取り直して、大神の御神示のとおりに悪者どもに正業に就くように諭し、農業を教えたのでことごとく直く正しい生活をするようになりました。 人々は大神の御神徳を讃え、三津ケ峰のことを大国主の山→主の山→主の嶽、後に牛嶽と呼ぶようになったということです。

 『越中一ノ宮伝記』は、阿部久良という者が代表になって、牛嶽の峰に昇る朝日を仰ぎ見られる場所、夕日が赤々と牛嶽の峰々に映えわたるのが見られる場所を高瀬の野と見定めて、 そこに大国主大神を斎(いつ)き祀ったのが現在の高瀬神社であると記しています。

 ~後編に続く~

連載:神のまにまに ≪第7回を読む  第9回を読む≫