~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第9回:うぶすなの四季 神様とまつりの話

◆和来の神(後編) 高瀬神社例祭(九月)

 常ににこにことお笑いになっている和魂の童顔は人々の心を撫育されるお姿であり、祖先が大神をお慕いして来た心が今もわれわれを打ち、牛嶽の白雪のように仰ぎ見るのです。 牛嶽を中心に大国主大神を祀る牛嶽神社は三十余社もあり、高瀬神社の奥宮として年々参拝者が増えています。

 さて、宮中には八神殿があり、天皇様をお守りする神々がお祀りしてあります。 そこに勾玉(まがたま)が祀ってありますが、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の和がこれなんです。 勾玉の一つ一つはいろいろな形をしていますが、それらが集まって家庭の和を作っているのです。 「和」は禾(のぎ)偏に口と書きますが、禾は食べ物を表しており、食べ物が口に十分に入らないと和は保てません。 また、お互いに明るく暮らしていくために各人が我慢をしている面が多いわけですが、それについて釈迦如来が次のようなことを説いています。

 昔、百済(くだら)の山に一匹の蛇がいました。 あるとき、尾が頭に向かって言うには「頭は蛙や卵などうまいものを呑み込むが、わしには大小便しかくれない。 お前みたいな奴とは一緒にいたくない」。 すると頭が「わしにも言い分がある。 大体、お前がいるから、長くて気味が悪いなどと言われるのだ。 今日限り別れよう」と言い返して、別れ別れになりました。 ところが翌日から、尾は腹が減って、ひもじくて仕方がない。 頭は大小便がたまる一方で苦しくてならない。 結局、仲直りして元通りの姿に収まったということです。

 このことは国も同様、家庭も同じです。 本来一つのものがばらばらでは何もできません。 これが「和」の基本なのです。 二宮金次郎は「芋こじ会」というものを奨励しました。 これは今の常会のような村の集まりですが、その名の由来は、芋を桶の中で短気を起こさずに回していると、芋同士がこすられて皮がむけ、されいになる。 中には桶から飛んで出るのもいるが、それはまた、中へ入れてやる。 そうすれば、瘤」(こぶ)のあるのもないのも、みんなされいになる。 そういうような会合を持てば村全体の和が保たれるというわけです。

 大黒様のにこにことした笑い-「笑い」は「和」がもたらされることによって生じるので意味的には「和来」なのです。 「和」は「輪」に通じ、勾玉のようなものは輪が切れるとばらばらになり、「和」がなくなってしまいます。

 勾玉のほかに、神社では剣と鏡も欠くべからざるものです。 剣は「権利」を示しています。 鏡は前に述べたように、わが身を照らして、自分の顔は祖先からいただいた顔であり、同時に未来へ繋ぐ顔ですから、祖先を尊び、子供を大事にするのは人のつとめです。 また、勾玉に象徴されるように、「和」をつくるのも一つのつとめなのです。

 この二つのつとめ(義務)を果たさないことには「権利」は生まれません。 つとめを果たさないで不平ばかり言っていても駄目なのです。 ローマ帝国が滅びたのもそれが原因で、あまりにもわがまますぎてそれぞれが中流以上の生活をしようとしたからです。

 仕事というのは「仕える事」と書きますが、誰に仕えるのでしょう。 会社や工場ではありません、他ならぬ自分に仕えるのです。 自分というのは祖先の生まれ代わりであり、子孫へも続く過去・現在・未来の自分なのだから、自分に仕えることが祖先や親に仕えることであり、 子供に仕えることです自分の仕える親や家族を養っていくために働くのが会社なり工場での仕事なのです。 祝詞の中にも「家門広く、氏の名高く、直く正しく仕へまつらしめ給へ」とありますが、「仕へまつる事」が「仕事」になったのです。

 神社は一つの祖先崇拝の場所ですが、鏡があって、勾玉があって、剣があって、そこで自分が何者であるかが分かってくる。 そうすると他の宗教は学校のようなものです。

 お経の中に「三奉請(ぶしょう)」というのがあります。

奉請弥陀如来入道場散華楽
奉講釈迦如来入道場散華楽
奉請十方諸仏入道場散華楽

 「入道場」というのは「御堂にお入りください」ということで、「お練り」といって坊さんが音楽の後から列を組んで行き、先頭の者が花びらを撒く。 これは神道の切り幣(ぬさ)と同じです。 御堂は「道場」であり、そこに入ってお説教を聞くわけです。

 神社の方はそうではなしに、自分の祖先を祀ってある。 自分の祖先の何々氏を祀ってあるから氏神、その子だから氏子というのです。 自分の氏子でない神社に参りに行くのは信者(崇敬者)です。

 氏神は産土(うぶすな)神とも言いますが、学者によると、河川はともかく、田んぼや屋敷の下の土には一坪(畳二枚)に六人から七、八人の骨が埋まっていると言います。 「うぶすな」とは土を産んだ祖先ということです。

 同時に、日本人一人に六十万人の親がいるといいます。 そのうちの一人がいなかったら自分はいない。 自分の体の中に全ての六十万人の親の血が受け継がれて来ているのです。 そう考えると、祖先に仕えるのが自分の仕事だということがよく分かってくるでしょう。  神社の本殿には石や鏡を置いてありますが、それらは御霊代(みたましろ)(御神体)で、神が降臨されるのです。 姿や絵を描くのは仏教が入って来てからのことで、山や滝そのものが御神体のこともあります。
目を閉じると、親の姿が浮かんでくる
それが自分にとっての本当の御神体です。

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