~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第11回:うぶすなの四季 神様とまつりの話

◆生・老・病・死 大祓(十二月)

 十二月三十一日。 いよいよ年も押し詰まり、この日は一年中の罪穢れを祓い浄めて、清らかな気持で新年を迎えたいものです。

 雑木林の中に雪が岩のように固まっているのを「岩盤」といいますが、雪が消えてくると、木が持ち上がって畳ほどの岩盤が山の上から飛んで来ます。 そこを急いで走り抜けようとして当たる場合もあれば、ゆっくり行っても当たることもある。 運がよかったか、悪かったかは結果で分かるわけです。

 そのためには、やはり大祓でよき運の授かるようにお願いをしなければならないのです。

 さて、行く年の慌ただしさの中にあって一年を振り返りながら、人生というものについて何かしら考えの及ぶのが年の暮れです。

 「言い訳に四苦八苦する」などとよく言いますが、どんな宗教でも生・老・病・死の「四苦」というものを必ず説きます。

 神社は終戦直後まで国家神道でしたから、祖先崇拝教であっても宗教ではないので「四苦」などは関係なく、国家の安寧と氏子の平穏を願っていさえすればよいということになっていました。

 ところが、明治以前の神道はそうではありません。 キリスト教ではエホバの神を天地創造の神だというし、仏教でも弥陀如来が始まりだと釈迦が説いています。 神社神道では天津神によって天地自然の理が扱われ、この神々が生・老・病・死を司っていらっしゃる。 天津神というのは姿の見えない神様、またはこの世に伝説的に言われている神様方のことです。 明治以前の神道では、人が生きるのは自分の力ではなしに、祖先の御霊をはじめ氏神様など全ての神様、天津神と国津神の力によってもたらされたものであるというのです。

 年寄りというのは多年の「経験」です。 経験を積まない年寄りは「ごくつぶし」といってもよいでしょう。 中にはそういう者もいますが、それは神様が「こういう人間もいるぞ」と見本を見せてくださっているのです。 ただ迂闊(うかつ)に年を取るだけでは駄目で、積み重ねた経験を後の世に残すのが年寄りの使命なのです。

 病というのは「反省」です。 ご馳走をたくさん食べたから胃が悪くなった、煙草を吸いすぎたから肺が悪くなった・・・・このように反省するのが病気です。

 死ぬのは「身罷る(みまかる)」というように、この世から身を引く、つまり、元の方へ戻って行くことです。 天理教では、来た人に「いらっしゃい」ではなく「お帰りなさい」、別れて出て行く人には「さようなら」ではなく「行ってらっしゃい」といいますが、神社神道でも、神からいただいた生であるから、 いずれあの世に行ったときには「帰り言(ごと)」をしなければなりません。 軍隊では「復命」と言いますが、あの世にいるお父さんお母さん、おじいさんおばあさんの前で「行って来ました」と挨拶し、「ご苦労だった」と答えてもらうために生きているときに様々な苦労をするのです。 生きているだけの苦労なら苦労しなくてもいいのです。

 こういう例があります。 ある人が夫婦で相談に来て、今ある墓には自分をいじめた舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)が入っているので別に墓を作りたいが、どの方角がよいかというのです。 「それはお寺の妨さんに聞いたらどうか」と言って帰したら、翌日またやって来て「坊さんは『祖先崇拝なんだからどこでも作ればいい。 葬式は生者の死者との告別式だ』と言っている」という。

 それはおかしい話で、葬儀は浄霊式といって、仏教では弥陀如来の力によって凡夫の人間が仏心に変わってくる。 生きている間は悪態な年寄りでも、死ねば魂が浄化されてあの世へ行く。 それが葬式なのです。 その証拠に棺桶の前で「なになにの亡骸(なきがら)の御前に申し上げます」と弔辞を読む。 亡骸とは魂がからっぽの状態をいいます。 魂は御仏の力によって極楽浄土へ行っているわけです。 これが仏教の教えのはずなのに、死んだ者と生きている者の別れの式だというのはおかしい・・・・。

 こう言うとようやく私の話に耳を傾けるようになりました。 そこで、「あなた方の考え方は間違っている。 和霊(にぎみたま)とか幸霊(さきみたま)というものは極楽浄土へ行く。 荒霊(あらみたま)は一時は墓に祀られ鎮まっていますが、神々と仏なり祖先の御霊の撫育によって和霊や幸霊に生まれ変わっていくのです。 別に二つも墓を作ることはありません。 あなた方を苦しめた舅姑さんたちも仏様の慈愛によって浄霊され、和霊になっていますから同じ墓の中で仲良く永遠に鎮まりなさい」と諭すと、二人は納得して帰って行ったのです。

 大晦日の大祓は夕方の五時頃の神事ですが、その後、午後十一時半からは除夜祭が執り行われます。

 この年最後の祭儀ということもあるのでしょうが、心がいつにも増して引き締まり、一年間障りなく神様にお仕えできたことに対する万感が充ち充ちて来て、祝詞を奏上しながら涙声になるほどです。 それはまた、神主であることの幸せをしみじみ噛みしめるひとときでもあるのです。

 うぶすなの四季・神様とまつりの話は、今回で終了します。

 次回からは「幼き日・若き頃」を掲載します。
ご期待ください。

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