~御鎮座二千年の越中一宮~
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第12回:幼き日・若き頃

 「耄碌(もうろく)」という言葉があります。言うまでもなく、年を取って頭の血のめぐりが悪くなったことですが、「耄」は年寄り、 「碌」はぽろぽろになった小石のことです。「耄」の字を分解すると「老」と「毛」に分かれますが、この場合の「毛」は「細い」とか「衰えた」という意味です。 どうもわれわれ老人にはありがたくない言葉ですが、一説によると「耄」は九十歳を指すのだそうで、いよいよもって私自身のことを言われているような気がします。

 耄碌をしてくると記憶力がとみに衰え、特に最近の出来事ほど忘れっぽくなっていくのが自分でもよく分かります。 しかし、古い話は結構しっかりと覚えており、長年の記憶が脳にぎっしりと詰まって新しいものが入る余地がないのではないかと思ったりします。

 ここでは、私の歩んで来た道筋の中から、青少年時代の思い出のいくつかを拾ってみたいと思います。


◆東天紅の卵


 私は日露戦争の終わった翌年、明治三十九年十一月の生まれです。兄が一人いたそうですが、二歳か三歳で亡くなり、その後は姉が二人続いて、 跡取りはもうできないのではないかと思っていたところに私ができたのでみんな大喜びだったそうです。特に祖父は感激して、東天紅の一種でしょうか、 光った羽根の鶏を囲って、その茶色がかった卵を私に飲ませました。鶏の傍で待ち構えていて、産むやいなや直ちに持ってくるほどの熱の入れようです。 ところが、精が強すぎたのか、頭から顔から、できものだらけになり、とうとう卵は禁止されてしまったということです。

 父は「男の子は鍛えなければ駄目だ。この子には夏も冬もない」と言って小さい頃から剣道を教えました。 竹の割ったのを芯にして、その上を縄で巻いた袋竹刀を使い、面はなく、藁で作ったような胴だけを付けていました。勝負はどこでも当たったら負けというものでした。 母は、武道が盛んで鎌倉時代の刀工・郷義弘(ごうのよしひろ)や幕末の三剣士の一人・斎藤弥九郎で知られる氷見の仏生寺から嫁いできた人だったので、 その父親(有名な神道学者の植田直助門下)にも習いました。

 小学校に上がるか上がらないかの時分ですが、祖父と父は祭りに馬に乗って出かけていました。 あるとき、子馬が生まれて、それを私がもらうことになりました。うれしくてたまらず、「秀直号」と名付けてかわいがっていたのですが、 ある日、誤って飼い葉を切る押し切りの上に乗ったために脚を切断し、あまりの無残さに見ていた私は気を失ってしまいました。 馬というものは脚をやられると生きていくことがでさません。やがて獣医の手で川原で銃殺されました。 そのとき私は、動けないように家で手足を縄でぐるぐる巻きに縛られていました。

 子供にはさまざまな事故が絶えないものですが、幼い頃、姉二人に連れられて桑の実を取りに行き、大きな用水に滑り落ちたことがあります。 ところが、姉たちは泳ぎを知らないにもかかわらず、私を助けようと咄嗟に水の中に飛び込んだので、結局、三人とも五百メートルほど流されてしまいました。 幸い付近にいた大人に救助されましたが、きょうだいというものは魂で結ばれていたのだと、今となっては懐かしく思い出されます。

 また、当時は養蚕が盛んで、わが家でも奥行き三間半の中二階に蚕を飼っていました。蚕の食べる桑を取ってきて貯蔵する穴蔵があり、 私がいちばん背が小さくて出入りに都合がよいところからいつも手伝わされていたのですが、 あるとき、なぜか息苦しくなってそのまま気を失ってしまったのです。実は穴蔵の入り口がつぶれて、酸欠状態になったのでした。

 蚕の世話をするのに下男、下女が何人もいましたが、一人の下女が下男の子を宿して大騒ぎになったことがあります。 しかし、そのとき祖父は「これはわしの子だ」と宣言し、みんなも信じ込んでいたのですが、数年後に自分が仲人になって一緒にさせました。祖父は「親切という字は<親を切る>と書くだろう。 本当に人に尽くすには、親を切るぐらいの気持がないといけないのだ。何か見返りを期待するのは親切ではない」と語っていました。

 祖父母は近所の子供たち十五、六人を集めて寺子屋のようなものを開いていました。 一尺一寸四方で深さ一寸ほどのお盆に炒った小糠を入れて一本の割り箸を使って字を習うのです。 ぽんと叩くと字が消えるので大変便利な「練習帳」でした。

 私が学校へ行くようになると、祖父が教科書のおさらいをしてくれました。 「楠正行は十一歳にて戦場に向かい・・・・」というくだりで「戦場」をセンバと読んだので「先生はセンジョウと読みました」というと、「いや、センバが正しいんだ」と言い張る。 何度か言い争った末に「センジョウが正しいのだが、頭から鵜呑みにせず、センバとも読めるかもしれないということも考えなさい。 物事は表ばかりでなく裏もあるものなのだよ」と教えてくれました。

 また、祖父は長崎で蘭方と漢方を学んで来た人ですが、この地方に医者がいなかったので毎日、人が詰めかけました。 私が学校から帰ってくるとどの部屋も患者でいっぱいでした。 聴診器がないので桑の根を削ってゴム管を差したものを使っていたのを覚えています。

 私の仕事は薬の材料を取りに行くことでした。 一番高価なのはカマキリで、一匹二銭ぐらいだったでしょうか。 その時分、二銭あればまんじゅうが四つほど買えました。 これは肺病(結核)の熱さましに用いられました。 青竹を茶碗のかけらで削ると皮が鰹節の粉のようになり、これも肺病の薬になりました。 そのほか、アブやセミの脱け殻も薬用に集めました。

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