~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第14回 幼き日・若き頃

◆山榊の花

 母は大正六年四月二十二日に亡くなりましたが、今でも忘れられないのは、玉串のために用意された、青く光る葉の裏に泡のように咲く山榊の白い花が、 母の亡骸の横たわる部屋いっぱいに匂っていたことです。日が暮れて弔問の人たちが一人、二人と帰って行った後、幼い弟がしくしくと泣きだし、 それにつられるように姉二人も声を上げて泣き始めました。翌日、穴を掘ってお棺を入れたとさ、弟はそこへ飛び込んで「僕、カタイもんになるから、 母ちゃんに泥かけてくれるな」と言って手を合わせてみんなに頼むのです。すぐ引っぱり上げましたが、私に抱きついたままなかなか離れようとしませんでした。

 大正七年、小学校を卒業し、砺波中学を受験することになりました。母親がいないので、その頃は朝、自分でご飯を炊き、弁当を詰めていました。 ところが、一日目は無事に終わったのですが、二日日の朝、青島の駅に駆け付けたときには汽車は出て行った後でした。涙は出るし、くやしいし、 か-つとなると頭の毛根から血が出るものです。手ぬぐいが薄桃色に染まりました。

 家に帰って父に言うと、「五分早く起きればよかったんだ」と叱られたので、そのまま母の墓へ裸足で駆け出して行きました。 土葬ですから棺が腐るまで上に棒杭が立っている。その杭を引き抜いて小便をかけたんです。そして、「こんなにつらい目にあわせて何が母親か。 ほんとに子供がかわいいのならどうして連れて行ってくれなかった」と、腹いっぱい泣きました。どれほどの間そこにいたでしょうか、 しばらくして家へ戻って来たものの、上の姉は嫁いでいるし、次の姉も高岡に寄留して女学校に行っていたので常に不在です。家の中にはたとえようもなくしんと冷たい、 いやな空気が漂っていました。それに耐えられなくて、夜になってからまた、弟を引っ張って墓へ行って、母にさんざん文句を言ったのでした。

 その日か次の日か忘れましたが、冷たい我が家にいるよりも母親のところに行こう、きっと待っていてくれるにちがいない・・・・と思って、 裏の桜の木に登って首をくくって死のうとしました。ところが、間抜けなことに足を滑らせてしまい、縄にこすられて血は出るわ、痛いわで、とうとう死ねませんでした。 これもきっと、母が必死になって押しとどめてくれたからだと思っています。

 結局、試験を受けられなかったために中学へは行けず、井波の高等小学校へ通うことになりました。けれども、「落第神主」「落第烏帽子(えぼし)」などと からかわれるのが口惜しくて、そのうちに学校へは行かなくなり、田んぼに茣蓙(ござ)を敷いて「三好清海入道」とか「猿飛佐助」などを読み耽りました。 本がなくなると雑誌を買って読みましたが、金が続きません。そこで、カブトムシに糸を付けて自分の家の神社の賽銭箱に落とし、一銭銅貨をつかませて引き上げるという 悪いことを考えつきました。十銭で本が一冊買えた時代です。

 そのように人の道からはずれかかった私を立ち直らせてくださったのは、武田五三郎校長先生です。ある日、涙ながらに打擲しながら、 こんこんと諭してくださいました。そのときに京都の国学院に必ず入ることを先生と約束したのですが、そのためには中学二年の検定を取らなければなりません。 しかし必死に勉強したお陰で検定に合格、大正九年、無事に国学院に入学でしました。

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