~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第16回 幼き日・若き頃

◆大震災の巷で

 東京時代で忘れられないのは何と言っても関東大震災のことです。上京して三か月後の九月一日、日本橋茅場町の日枝神社の摂社に一人でいるときでした。 当番で前日から泊まり込んでいたのですが、正午少し前、食堂から弁当を取って食べていると、突然強烈な揺れに見舞われ、壁は落ちるわ、棚は飛んでくるわで、 とても立ってなんかいられません。 ともかく本社に戻らなくてはと、御神体を唐櫃に納め、背中にかついで表に飛び出しました。

 あたり一面の火の海です。親が子を呼び、子が親の名を呼ぶ地獄絵のような光景が繰り広げられていました。 だが、まだ東京をよく知らない田舎者のことで、赤坂からの電車道しか知らないのに、道路も線路も壊滅状態の中でどっちへ向かったらいいのか分からない。 仕方なく勘を頼りに歩きだしたのですが、いちばん困ったのは川です。 当時の橋は木レンガ製なので火が付いて燃えており、渡ることができません。 そこで、水道の鉄管をまたがって渡るのですが、向こう岸からもやって来て鉢合わせをすると、じゃんけんをしたり、人数の多い方に譲ったりしなければならない。 橋によっては紐が下がっていて、それにつかまって川原へ降りるようになっているところもありました。

 そのうちに疲労と空腹のため、堤防に座り込んで眠ってしまいましたが、半狂乱になってわが子の名を呼ぶ声に目を覚ましました。 三十五、六歳のその母親は白衣姿の私を見付けて「そういう格好をしているのは行者さんでしょう。 二人の子供と離れ離れになってしまったので探してほしい」とすがるように言うのです。 とはいってもこの混乱の中ではどうしようもありません。 名前だけを聞いてまた歩き出したのですが、夕方、日が西に傾きかけた頃、焼け残った公衆電話の中に七つぐらいの男の子と五、六歳の女の子が抱き合うようにして眠っているのを発見しました。 名前を聞くと探している子供たちに間違いないので、その場を動かないように言い置いて引き返し、母親を連れて来ました。 親子が大声をあげて泣きながら抱き合う姿に私ももらい泣きをしましたが、神の加護への感謝の念とともに、亡き母の思い出が次々に心に浮かんでは消えていきました。

 三日目の朝になって、やっとのことで神社にたどりつくと、社務所は焼けてしまい、境内の木々も丸焦げになっていましたが、本殿と拝殿は無事でした。 社員二十六人全員の顔が揃っていましたが、私一人だけが欠けていたのでみんなで心配しているところでした。 宮西宮司も喜んで、腹が減っているだろうと焼き飯のようなものを食べさせてもらったのを覚えています。

 大正十五年、大正天皇が崩御されましたが、昭和二年の多摩御陵の地鎮祭には八人の祭員の一人としてご奉仕申し上げました。 その折に特命で主典に昇格したことも光栄で、故郷の父から祝電が届きました。 しかし、同じ年の暮れ、そろそろ身を固めなければならない年頃だから帰宅するようにと父親に言われ、四年に及ぶ東京生活に別れを告げたのでした。 二十二歳になっていました。

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