~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第19回 座談会 秀直翁を囲んで

◆高瀬と藤井家

岩倉
平成五年に『累代高瀬神社宮司藤井家の略系図』というのを出されましたが、現在の高瀬遺跡に中臣家成という人がいて、どうもこの人が高瀬神社の最初の宮司らしいんです。 その息子の中臣御成が砺波の大領(郡司)になったときに忙しくなって宮司をしていられなくなった。 そこで、奈良から藤井さんを呼ぶことになり、藤井家十五代目の秀方という人が仁寿二年の十一月七日に高瀬へ任命されたんだそうです。

そういうわけで千百年ほど前に藤井さんが来られ、それからずーっと高瀬にいらっしゃったんだけれども、浄土真宗の一向一揆の衆と高瀬の衆が激しいいさかいをして高瀬が負けたんです。 そのときに高瀬は水の支配のできる場所におったらしいが、藤井さんは代々社家として高瀬にいて、水下の村の人たちともずいぶん懇意にし、頼りにもされてきた。 だから、一向一揆が始まったときにも、高瀬のお宮さんをやっつけるなら許されんということで、瑞泉寺の一向宗との戦いが始まった。 しかし、負けてしまったので、最初は城端の方の東西原へ行ったらしいんですね。 今でもそこに高瀬の藤井家の子孫というか分家というか、そういう人がいるんです。

藤井(秀直)
藤田とか藤枝とかいう姓の人がいます。

岩倉
それからちょっとほとぼりが醒めて本格的にいろんなものを整えて利賀へ行ったというふうにお聞きしていますが、真っ暗な闇夜の中を小道を伝って山へ上がっていくときに、先頭の者が鉦鼓(しょうこ)をちんちんと叩いてその後をみんながついていったそうです。

藤井(秀直)
そういったものはみな高瀬神社の宝物殿にあります。

岩倉
そういうことで、藤井家というのは富山県の中でも誠に正しい系統というか、どこからも後ろ指を差されない系図が代々書かれているということには驚かざるをえないんです。 お父さんの秀一(ひでかず)さんにしても実に立派な方でして、高瀬神社は大正十二年に国幣小社になったわけですが、国幣社の宮司は兼務神社を持ってはならない、つまり、自分は辞めなければならなくなることを承知のうえで国幣小社にした。 「なんという馬鹿なことを・・・・」と人に言われたそうですが、しかし、そのおかげで高瀬神社の位というものがみなさんに信じてもらえるようなものになつたと思います。

これは私の父親が言っていたことですが、終戦後、国家神道ではなくなったので社殿もみずから建てなければならなくなり、村の人たちはずいぶん苦労して寄付を集めてようやく完成した。 そのお祭りにたくさんの神主さんが来られ、行事が進んでいってみんなが飲んだり騒いだりしているときに、まだ若かった今の藤井宮司さんが、ほうきと塵取りを持って黙々と隅々を掃いておられたというんです。 そこに勤めているのではなく、たまたま祭りに来ていた藤井さんがそういう一番下の仕事をしていたのを見て、これこそ代々つながってきた血のなせるわざだ、どんなことがあっても高瀬神社の宮司に迎えなければならん・・・・と思って何人かに話をしたんだそうです。 やがて尾崎宮司が亡くなって、いろんな議論もありましたが、うちの父親をはじめ有志が「藤井さんに戻ってもらわなければならんのだ」と頑張って村の意見を統一した。 これは、高瀬神社の社家としての藤井一族を神様が呼んでくださったんだと思います。

藤井(秀直)
私は岩倉さんのお父さんが見えたときに迷ったんです。 いま、岩倉さんが言われたように、おやじが高瀬神社の宮司を辞めなければならなかったのは、国幣小社に昇格すると兼務ができない。 そうなると、他の五十いくつの神社を捨てなければならない。 私が一人前の神主になっていればよかったんだけれども、そのときはまだ十四歳ですからとても無理でした。

今思うに、おやじは淋しかったんですね。 覚悟していたことだけれども、高瀬神社に未練があったんです。 朝、どこへ行くとも言わずに汽車に乗って行って、主典どもに姿を見せないようにして神社の周りをぐるぐる回ってきた。 そのことを思い出して、やはり自分が宮司にならなきゃならないと思ったり、半面また、私がなったところで後の子供が続かなかったらどうにもならない。 どうしたもんかと思っていたら、周囲の者たちがみな、ぜひ受けるべきだというし、地元の各町村長もそろって賛成してくださった。 それで、神主というのはみんなの塩にならなければいけないのだから、みなさんの意向に従おうと決心したんです。

岩倉
宮司さんが七十七歳のときに私は高瀬の区長をしていたんですが、村の者で喜寿のお祝いをすることになり、式辞を私が書きました。 藤井家と高瀬の関係を歴史的に述べたのですが、年表を見るとさっきの話よりもう少し若くなった室町時代に、越中に土一揆が起きたとある。 高瀬の衆が立ち上がって遊佐という殿様と何回でも喧嘩をしているんですが、どうもその中心が藤井の神主さんが率いる人たちらしいんです。 殿様に対して意見は申し上げるし、奈良の東大寺にまで「遊佐の殿様の方から来ている代官は駄目だ」と書き送ったり、高瀬の衆というのはなかなか頑張ったんです。

藤井(橘)
この辺の農民は年貢を全部、高瀬荘へ納めていたんですね。 高瀬荘ではそれを東大寺なり、国へ納めていたらしい。 藤井一族はその後、一向一揆で利賀の方へ逃げて、世の中が落ち着いた頃、庄へ移られた。

岩倉
庄の雄神神社というのがまた、大変古いお宮さん(延喜式内社)で、藤井さんが最初からおられたらここが国幣小社になっていたかもしれない。

小谷
ただ、私が子供時分のことを思うと屋敷は狭かったですね。 財産はある程度のものは持っておられた宮らしかったけれども。

藤井(秀直)
今の弁財天のところを元雄神神社といって、昔はそこに神社があったんです。

小谷
あそこまで庄川が来ていないときです。

岩倉
三条山というか千代ケだめしというかそこら辺から山が出ていて、流れてきた水がこの山の裾にぶつかって高瀬の方を向いて流れていたらしいんです。 それが何回も何回も大雨で庄川が暴れて、その度に少しずつ削られていく。 一番削られたのは応永十三年ですが、飛騨の城が山崩れで庄川を塞いだのが堤防みたいになり、七日間降り続いた雨で川にたまった水が一挙に抜けて出て弁財天の山にぶち当たった。 それで山が崩れて千保川などに分流を作り、土砂で高瀬川が埋まってしまった。 そのときに残った岩盤が今の弁財天といわれているんです。

藤井(橘)
最近、高瀬神社のちょっと上手の方で砂利採取をしていたようですが、坪野あたりに来ると砂利が全然ないそうです。 まるでヘドロみたいな一つの層になってバンパンになっているんです。

岩倉
あそこは古い古い地層で、かなり高いところで庄川が流れていたんです。 そういうわけで高瀬神社のある場所から南の山を向いて高みになったところが奈良時代から一番開拓されたところだと言われているんですが、砺波地方の農家にとっては高瀬神社が豊作の神様であり、ここへお参りしないことにはとても百姓はできないというくらい信仰が篤かったんですね。 だから、その宮司を五十代以上も続いてやっていただいている藤井さんというのは高瀬にとっては絶対にはずせない。 また、大宮司屋敷、大宮司田という地名も残されていますが、これもやはり、藤井さんの先祖がいらっしゃったんだと聞いています。

つづく

次回は座談会第3回「人の教え・親の情」を掲載します。
ご期待ください。

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