~御鎮座二千年の越中一宮~
高瀬神社は心の拠り所として 人々の幸せを一途に見守ってきました

第20回 座談会 秀直翁を囲んで

◆人の教え・親の情

藤井(秀直)
(祖父幸麿(さちまろ)の小型の銅像を手にしながら)おやじの銅像が建ったときに「わしよりも幸麿さんの方が偉かったんだ」といって作ったのがこれです。 父親は悲しいときにはこの像をじ-っと見つめ、うれしいとさには何度も何度も撫でていました。 そういう父親にはいろいろ教えられましたが、私の弟が養子に行って箪笥(たんす)の引き出しを開けると、底の方から「苦を忍び心して行け雨風もいつかは晴れて月を見るらん」と書いたおやじの書が出てきました。 苦を忍んでいればいつか月を見ることがある、雨風に耐えていればいつか月を見る楽しい日があるだろう・・・・という意味です。 私には「苦しいときには御霊屋へ来て一時間でも二時間でも座っていると答えがおのずから出てくる」ということをよく言いました。 また、私は母親が六人も替わったわけですが、村井さんという、小谷太平次さんの家から養子に行った方が「いかに立派なことを言っても、親が違ってることで私生活がむちゃくちゃなら浪花節語りと同じだ。 何を言ってもいいが実行できないことは言いなさんなよ」と強く言い聞かせてくださったことがあります。

こういうこともありました。 実母が死んでしばらくして、弟と山へ栗を拾いに行ったんです。 そのときに弟が「山へ行っても魚取れんねえ。 川へ行っても栗取れんねえ。 生んでもらってないお母さんにはかわいがってもらえんもんだねえ」というんです。 生んでもらってない母親に母性愛を求めても向こうは生んでいない子供から親孝行を望んでもいないんだ。 ないものを欲しがるのは間違ってる・・・・ということを弟は言いたかったんですね。 さっさ小谷さんが言われたように途中で脱線せずに来られたのは、ないものを望むから腹が立つんで、ないものはないであきらめていけばどうにかなると思ってやってきたからだという気がします。

こうして、両親を始め何人もの人に教え、導かれて来たわけですが、一番の大恩人は小学校の校長の武田五三郎先生です。 実は私は汽車に乗り遅れて、中学校の試験を受けられなかったんです。 そこで、高等小学枚へ行きましたが、落第神主とからかわれたりしてあまり登校しなかった。 そのとき、校長だった武田先生が私を自分の家に呼んで、奥さんが止めるのも聞かずに、「こいつの根性を入れ直してやる」と下駄で殴りながら「やがて神主さんになって、床の間を背に御膳に座っていただいて酒、肴を差し上げる身分になる人間がこんなことでどうなる」と涙を流して叱りつけてくださった。 そのことがなかったら私は堕落していたかもしれません。

小谷
偉い人だったねえ、武田先生は。 あの先生に教えられた子供は大抵間違いを起こしていない。

藤井(秀直)
そういう方を持っていなかったら、悪態者になっていたでしょうねえ。

小谷
しかし、おじいさんも、お父さんも厳格な人でしたね。

藤井(橘)
私が十歳ぐらいで獅子取りをしている頃、お父さんの秀一宮司がお見えになったのを覚えています。 立派なお髭を生やしてね。

小谷
顔は恐ろしかったけど、思いやりのある人でした。

山森
私はこの宮司の姉の子に当たるわけですが、子供の頃は年中この家にいて、正月になると自分の家へ行かされるのが納得できないほどでした。 だから秀一じいさんのこともよく知っていますが、子供心にもなんと厳しい人かと思いました。 一人前になった自分の息子の秀直さんを祭りの最中でも笏で叩くし、囲炉裏の縁にいても火箸が飛んできた。 問答無用だった。

藤井(秀直)
私は内臓が弱くて声が小さかったんです。 そうすると、祝詞を読んでいる最中に笏が飛んでくる。 一番ひどいのは鉄瓶の沸いてるのをぶつけられて火傷をしたことがあります。

山森
しかし、どれだけ厳しくされても決して文句を言わなかった。 それどころか、今でも尊敬しておられる。

藤井(秀直)
尊敬するのには理由があるんです。 弟が小学校へ上がるか上がらないかの時分ですが、安川へ養子に行った。 けれども淋しかったんですね、一過間もしないうちにバラスを運ぶ荷馬車にこっそり乗って家へ帰ってきた。 おやじに見つかると叱られるからお宮さんに隠して、台所で握り飯を作って持っていっていたんですが、日が暮れると子供のことですから怖くて石段の下まで出て来てしまう。 何日目だったか、私の手の上にぬくいものが落ちたので、びっくりして振り返ると、おやじが泣いているんです。 「そんなにいやなら、明日、話をつけてくるから、きょうは家の中で寝ろ」と言ってくれた。 そのときのうれしさといったらありません。 その夜は二人で抱き合って泣いて過ごしました。

この弟が名古屋の神職養成所に入ったのですが、そのうちに一般の会社に就職してなかなか家へ帰って来ないので、おやじは「チチキトク、スグカエレ」と電報を打ちました。 弟は半信半疑で家の近くまで帰ってくると、危篤の本人が突っ立っている(笑い)。 心配で迎えに出ていたんですね。 茶番狂言みたいだけど、そこに父親の情というものが滲んでいる。 厳しい人だったが、ちょいちょい出るそういう愛情が子供たちを堕落させなかったんだと思います。

弟は成人後また、八尾へ養子に行って、ずいぶん苦労して家を大きくし、田んぼも買い足して立派にしました。 二番日の姉は伏木の一宮に嫁ぎましたが二年ほどで腸チフスで亡くなりました。 そういう具合で姉弟の中では山森さんへ行った上の姉が一番果報だったんではないかな。

山森
いや、本人は「こんな貧乏で、わからずやのところへ来て、私の青春どうしてくれる」と言ってましたよ(笑い)。 私は浪子刀自(秀直夫人)が二塚から嫁に来られたことが強烈に印象に残っています。 当時、五歳でしたが、縫い上げをした紋付と羽織を着せてもらって到着を待っていた。 昔は嫁入りは夜にするものでしたが、到着が遅いのでさすがの秀一じいさんも心配するし、お手引きの私の姉が待ちくたびれて眠たがったのを覚えています。 そのうちに青竹の杖を手に嫁入り道具を運ぶ人足がやってきて、やっとお嫁さんが現れたが、その顔がきれいにも、きれいにも・・・・・・。 自分も欲しいと思った(笑い)。 そして、小姑の子の私をわが子のようにかわいがってもらいました。

藤井(秀直)
その頃、蚕を飼っていなかったか?

山森
そうそう、蚕は飼う、畑はある、田んぼはある、山に木は植えんならん、植えたら手入れせんならんで、お嫁さんの浪子刀自は大変だったと思う。

つづく

次回は座談会第4回最終回「山に生きる」を掲載します。
ご期待ください。

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