第一回 : 序
私の三十歳の頃、高瀬神社の氏子の方々が中心になって、父・秀一の銅像が建立されました。高瀬神社を始め、氏神に誠心を以て奉仕したことによるとされています。
その時の父の喜びの顔は今でも忘れることができません。やがて大東亜戦争が始まり、軍用品に転用するために各地の銅像や梵鐘が国に献納されることになりましたが、父の銅像もその例外たり得ませんでした。その旨を伝えた時、父は既に病床にありましたが、「そうか」と一言言ったまま、悲しみと淋しさの入り混じった、実に複雑な表情をしていました。大抵のことでは心の動揺を顔に出さない人でしたが、よほど衝撃が激しかったものと思われます。
父が銅像になった当時、ありがたいことだと思いながらも、共に生き、共に苦しみ、楽しんできた人が人間ではなくなり、私の心から抜けていってしまったような気がして、ある種の淋しさを感じました。それから後も、父が失言をしないか、迂闊な行動を取らないか、大変に気を遣いました。今になってみれば、要らざる心配をしたものです。
私は子供の頃から、銅像になるのは、楠公親子、西郷隆盛、二宮金次郎、あるいは校長先生など、世の中で一番偉い人だと信じていました。だから、今回、私の銅像を立ててくださるという話があった時、まさに青天の霹靂でした。それならば父の像の再建をとお願いしたのですが、今ではその顔を知る人も少ないし、子の姿は親の姿だからというみなさんのご意見に逆らうことはできませんでした。
私のような人間の銅像ができるなどというのは、神に仕える者にとって到底考えられないことですが、奇しくも今年は実母の八十年忌にあたります。その因縁を噛みしめながら皆様のご厚情に甘え、直く明るく余命を神々に委ねて生きてまいりたいと存じます。
我が生命 神より受けしものなれば 神のまにまに生きんとぞ思ふ
「まにまに」とは「随に」で「神様の仰せのとおりに」という意味です。この一集は折りに触れての講話や拙い文章などを取りまとめたものです。浅学非才の身でおこがましい次第ですが、田舎神主の戯言とお読み捨ていただければ幸甚です。
なお、今回の銅像建立に際し、井波町長・清都邦夫、ゴールドウィン社長・西田東作、立山酒蔵社長・岡本巌、兼務神社氏子代表・米田五平、雄神神社責任役員・小谷太平次、高瀬神社責任役員・岩倉節郎、藤井組会長・藤井橘太郎の皆様を始め、氏子、崇敬者の方々より賜ったご尽力に対し、衷心より御礼申し上げます。
平成八年十月吉日 高瀬神社宮司 藤井秀直